激辛つけ麺高木やと稀勢の里の魅力

私にとって、「つけ麺高木や」と「横綱稀勢の里」の魅力の本質というのはかなり似ている。母が子を思うように私はそれらを愛してやまない。


それを説明するために、まず高木やの魅力について書いていきたい。一般論として、高木やとは激辛味噌スープを売りにしたつけ麺屋である。また主な客層は、店を長年支えるコアなファンと彼らに連れられてきた一見客だ。高田馬場と早稲田に店舗を構える普通盛り680円の平均的な料金体系のつけ麺屋といったところだ。

https://retty.me/area/PRE13/ARE661/SUB103/100000059725/menu/


また、高木やファンには二通りあり、一方は高木やに通う前からの激辛愛好家だ。そして、もう一方は高木やファンに連れられ高木やに通う内にその魅力にとりつかれた人たちである。悪い言い方をすると、押しに弱い女の子がやりたくもない男を気づけば好きになっていく構図と同じだ。もちろん私は後者にあたる。


ここで私が高木やに通い出した時の話をしよう。私はサークルの先輩によく高木やに連れて行っていただいた。初めは何が美味いのか全く理解できなかった。なんなら辛さだけしか感じられず決して好きな食べ物ではなかった。だが、それでも先輩は私を高木やに誘い、そして私も「奢ってもらえるなら…」と断りきれずついていった。しかし、ふとした拍子に高木やって美味いかもしれないと感じるようになったことを覚えている。

今までどうしようもないクズだと思っていたダメ男に気づけば軽く惚れていたのだ。それから私は一人でも高木やに通い出した。まるでホストに狂うキャバ嬢の如く。押しに弱いバカな私はこの感情がなんなのか分からなかったが、その正体を探るように高木やに通いだした。その時はまだ「この男の魅力が分かる私ってステキ…(*´ω`*)」といった浅はかな一種の自己肯定感を感じていたのかもしれない。

そして、いつしか高木やを食すことが私のライフワークになり、来る日も来る日も高木やを食べ続けた。その頃には「ダメな彼を私が何ときゃしてあげなきゃ!٩( 'ω' )و」と思う具合だから心が痛い。しかし、あるブログの記事を読んだことから、そんな私の高木や観が急速に変わっていった。


http://makushitasumo.com/archives/628

稀勢の里は俺たちであり、俺たちは稀勢の里である」というタイトルから始まるこの記事は、稀勢の里の魅力とは彼が持つ超人性ではなく、彼が持つ凡人性であると書かれたものであった。この記事の筆者は長らく大関として活躍し、現在横綱である稀勢の里が持つ凡人性に魅力を感じていたのだ。元々稀勢の里ファンであった私はその時ハッとあることに気づかされた。

白鵬キラーで知られ、長きに渡って相撲界で活躍する稀勢の里の実力に今更触れる必要はないだろうが、彼は「勝ち切れない力士」としても知られている。そもそも口数の多くない稀勢の里の心のうちが明かされることは少ないが、私は彼が長い間悩み、苦しみ、もがき続けてきたのではないかと思う。横綱になる前の彼は高いポテンシャルを持っているにも関わらず、実力差のある相手から予期せぬタイミングで星を落とした。また今場所こそは優勝を、と思うほど調子のいい場所においてもやはり長い間優勝できなかったのだ。

しかし、壮大な夢を語りセフレのような彼女から金だけ借りてはスロットに行き、文句を言えば殴りつけるゴミカスホストに惑わされるように、私はそんな稀勢の里に心酔していたのだ。もちろん私にもその時々で怒り、悲しみ、そして諦めといった様々な感情が押し寄せた。しかし、本場所が始まると、いつのまにかまた彼に釘付けになっている。私生活もそうだ。私のようなメンヘラ娘は何度彼と喧嘩をしても、やはりその彼に依存してしまう。このブログの記事を読んだ時、私は高木やと稀勢の里に惹かれる理由が少しだけわかった気がした。


つけ麺屋である高木やもまたそのポテンシャルを完全には発揮できてない節がある。何度も通っている内に気づいたことだが、高木やの味には一貫性がなく波がある。良い言い方をすれば常に一定のクオリティは保っているのだが、たまにとてつもなく美味い神回が存在するのだ。気付けば私は、たまにある神回を求め高木やを訪れ、そこに目的のものが無いことを確認して落胆するという一連の流れを繰り返していた。そうやって足を運んでいるとやはりたまに微笑みかけてくれる神回君が、これまた私を惑わしてくる。やはり私はたまに見える彼の優しさから、日頃の悪夢を忘れようとしてしまう典型的なメンヘラ娘だった。そして、そんな高木やの姿に稀勢の里が一瞬重なって見えたのだ。


それから私は思考し続けた。高木やを食すたび、稀勢の里の取り組みを見るたび、私は考え続けた。そして、ある結論にたどり着いた。我々凡人も「高木や」そして「稀勢の里」なのではなかろうか。いつも最高の状態であれる人は少ない。私が彼に失望したように彼にとっての私も完璧ではなかったのだ。いや、常に完璧な人間など存在しない。変化し続けることを受け入れ、その時々で何を感じ、その経験をどう活かすのかが大事なのではなかろうか。

 

言うまでもないが稀勢の里は力士としてべらぼうに強い。ダメ男などと書いてきたが正真正銘の横綱である。時代が江戸なら神扱いだ。高木やもまた激辛つけ麺屋であり、大衆に受ける味ではないがコアなファンが足繁く店に通う。相撲界で長く活躍する力士とラーメン激戦区である高田馬場で長く店を続けるつけ麺屋には、やはりそれ相応の魅力が必ずある。しかし、その魅力は完璧ではない。完璧ではないのだが、なぜか悪魔的にファンを魅了する。むしろ、その安定感の無さこそが私にとっては一番の魅力だったのだ。


そこで私は思う。高木や、そして稀勢の里を考えることとは、自分と向き合うことなのだと。自分のだらしない私生活と向き合える機会なのだと。

高木やを食べること、また稀勢の里の取り組みを見ることによって自己を見つめ直す機会を受動的に得られる。それは単なる食事、単なる相撲観戦の枠に収まらない新たな魅力となって確かに私の中に存在する。また、どちらか一方に触れるともう一方を思い出してしまう。だから大相撲を見れば高木やが食べたくなるし、高木やを食べれば大相撲が見たくなる。そして、過去のダメ男のことまでも少しだけ思い出してしまうのだ。

一見混ざり合うことの無いこの二つには実は共通の魅力が備わっているのだと、大人の女性になった私は強くそう思うのだ。

 

〜最後に〜

九州場所3日目を終え、早くも3敗してしまった稀勢の里に対してやはり落胆せずにはいられなかった。横綱は強くなくてはならない。土俵に上がるからには強くあらなければならない。多くを語らない稀勢の里の体の状態は分かりかねるが、土俵に上がり続けるのなら無様な負けではみっともない。そして何より一ファンとして、稀勢の里の負ける姿など見たくないのだと、早稲田の激辛つけ麺をすすりながら思うのだ。

体罰は要らない。必要なのは筋肉だ。

https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/738962

このニュースを見て改めて体罰について考えてみた。そこに纏わる話はいつも生徒の人間的成長に関するものではなかろうか。

 

はじめに言っておくが私は教育に体罰は必要ないと考えている。しかし、私はかつて体罰は生徒の人間的成長の為にあってもいいものだと思っていた。高校時代、スポーツ強豪校に在籍した私はそこでラグビーをするために、体罰を覚悟して高校を選んだ。大阪の下町で育ち「昔は竹刀を持った先生がウンタラカンタラ」と親に言われ、体罰なんて当たり前だと感じていたからだ。末っ子なので(?)親から受けた体罰の記憶はないが、それこそ愛の鞭とは熱血教師が生徒と向き合うために必要な手段とまで思っていた。暴力は良くないが、若い生徒の過ちをきちんと正してあげる上での体罰をかつての私は許容していたのだ。

 

しかし、その高校での衝撃的な出会いが、私の体罰観をまるっきり変えていった。ラグビーの強豪校とは放送当時社会現象にまでなったドラマ「スクールウォーズ」を想像していただければ話が早い。知らない人のために軽く説明すると、ザブングル加藤の「悔しいです」の元になった名シーンがある。

"お前ら悔しくないのか!

悔しいです!

(色々あって…)

今からお前達を殴る!"

といった今の放送コードから見たら目が点になるような体罰が賞賛される世の中がかつての日本には存在したのだ。そこに登場する生徒はやんちゃくれの荒くれ者、売り言葉に買い言葉、何かあったらすぐ力で解決しようとする、血気盛んな子が多い。そして、それは未だに高校ラグビー界にも少なからず残っている。私が在籍したラグビー部にも毎年数多くの荒くれ者が入部してきた。

しかし、当ラグビー部の監督は三年間でそんな新入生達を人として成長させていった。三年間を通じて、そんな荒くれ者が他人のことを思いやり、一生懸命目標に向かって努力できる人間に育っていく。そして、彼の指導には体罰など存在しなかったのだ。

 

彼はとにかく熱意のある先生だ。また、ラグビー理論は日本でもトップレベル、それは全国高等学校ラグビーフットボール大会の結果が証明している。日本代表に卒業生が複数人在籍し、大学に進学した生徒はチームの主要選手になっていく場合が多い。彼の指導は高校時代の結果と選手の将来性をも両立させているのだ。

ただ私が彼を尊敬する理由はそれだけではない。部活動とは「教育的指導の一環である」という信念のもと、生徒と心から向き合い、生徒の人間的成長こそが部活動の目的なのだと、時には口で時には背中で語ってくれた。必要さえあれば手話で語り出したかも知れない。

彼は一流のコーチであり、そして一流の教育者なのだと改めて感じる。それら全てが彼を尊敬する理由なのだ。

 

在学中に彼が口にした言葉を今でも思い出す。昔喧嘩ばかりしていた生徒が練習中に文字通り暴れまくった時のことだ。昼下がりのラグビー場には確かに彼の怒声が鳴り響いたのだが、結果としてその生徒は練習の見学に回されただけであった。そして、練習後のミーティングの時に彼から放たれた言葉が今も私の脳裏に焼き付いている。

 

「私の教育に体罰は必要ない。もちろん体罰が生徒を更生する場合があることも分かるし、未だに日本の教育現場に体罰があるということも理解している。しかし、体罰以外の手段で生徒が変わるならそれに越したことはない。それで生徒が変わらなければ私の教育者としての力不足ということだ。」と彼は確かに言い切ったのだ。

 

それから私は教育に体罰は必要ないと考えるようになった。教育者として理想的な考えを実行し続ける生きる伝説に心の底から共感した。しかし、これを実行して生徒を成長させることが出来る教育者が今の日本の教育現場にはどれほどいるのか、とも考えるようになった。肌感覚ではあるが、今そのような教育者が少ないということは確信を持って言える。要するに、これは能力がある人の意見なのではないのかと感じるのだ。

彼が様々な経験や試行錯誤からその指導法や指導論を導き出したことは手放しで賞賛できる。しかし、現実問題として荒くれ者と体罰を抜きにして心から向き合うのはなかなか難しいことではないか。部活動の顧問ではなく、また生徒に舐められがちな教育者であった時、この方法は果たして実行に移せるのだろうか。

 

私は教育者ではないが、この機会に教育現場へ一つのアイデアを提示したいと思う。自分の指導に自信が持てない教育者には是非とも筋トレ、そして格闘技を学んでいただきたいというものである。これは力を力で制する為ではなく、生徒と心から向き合うために必要なことだと感じたからだ。誰が相手でも物怖じせず思ったことを話す為に、教育者にも身体的自信があった方が良いのではないか。力で勝てない相手に対して、「相手のことを思いやった上で正直に思ったことを言う」のはなかなか難しいはずである。生徒のことを思いやり、そして心から向き合えなければ相手は子供であってもそれに気づくはずだ。大人に対する不信感が生徒を時に暴れさせるのではなかろうか。

 

教育に体罰は全く必要ない。ただ「力を使う」のではなく、「力をつける」というのが一つの教育的アプローチになるのではないか。筋トレをして格闘技を学ぶというのはあくまでも一つの提案でしかない。だが、その結果生徒と向き合える教育者が増えたなら、日本の学校教育はより良いものになるはずだ。学力向上だけが教育ではないのである。生徒の人間的成長もまた一つの教育なのであろう。また、この話は必ずしも教育者だけへのものではない。みんなが身の回りの人に対して思いやり、心から相手と向き合うことで少しずつこの世の中が変わっていくのではないか。互いに認め合い、相手の話に耳を傾けることこそ、今の我々に求められることなのではなかろうか。筋トレと格闘技とはそのための一つの選択肢なのだ。

 

〜最後に〜

筋肉を鍛える時にはまずしっかり栄養を摂ることから始めましょう。トレーニングをする上で忘れがちになりますが、フォーム、そして筋肉の可動域を意識したトレーニングが有効です。間違ったトレーニングは怪我をする恐れがあるのでご注意ください。トレーニングに関する知識に自信がない方はトレーナーの指導のもとしっかりと安全に配慮した上でトレーニングしてください。また、格闘技の方はなんでもいいと思います。あなたが楽しめそうなものを選ぶのが良いのではないでしょうか。